行列についてあれこれメモ/行列は何の役に立つか

象のパレード

享保の象、1400kmを歩く(1)

 ベトナムからの象が長崎に上陸した次の年の享保14年(1729)3月13日の朝、象は江戸に向けて長崎を出発しました。「我等、一命に換えても象は無事江戸にお届けします」と言ったのは、担当お役人。途中で死んだりしたら切腹ものですよね。
 この長距離象パレードのメンバーは14名で、宰領(責任者)は小舳田(おへだ)八左衛門と福井雄助という人で、そのほかにベトナム人の象使い2名と見習いの日本人2名、警護通事1名、下人1名、足軽2名、中間1名、宰領下人2名、挟箱持1名で編成されていました。


 しかし、象の通る各藩では、無事に通過してもらう必要から道案内や先導役、ところによっては警護、役人なども加わるなどパレードの編成は大きくなり、また、大きな街では、珍獣見たさに見物人が集まり、パレード化していったのです。単に運んでいるだけなのなのに、行列を見る側と見せる側とが明確になったわけです。


 一方、受け入れ側の藩にとっては大変な気の使いよう。例えば、「見物で騒がない」「道はきれいにする」「水を用意する」「象の休憩小屋を作る」「寺は鐘をつかない」「牛や馬は遠ざける」「犬や猫はつなぐ」「火の用心をする」「音のする仕事は中止する」などなど、細かいお触れが出されました。それから大きな川では舟橋という小舟をつないだ上に板を敷き、しかも土を敷いたところもありましたから、出費も少なくありません。


 象パレードの話題は広く知れ渡り、京都では、中御門天皇も「象が見たい」というわけで、象に対して「従四位広南白象」という位が与えられました。当時、位がなければ天皇への謁見はできなかったのです。当時、象は白いと思われていたので、白くしたという話も(本当かどうか分かりません)。こうして、中御門天皇と霊元上皇らの御前に姿を見せ、うやうやしく前足を折り曲げ、最敬礼の所作を演じたそうです。けふ九重にみるがうれしき(中御門天皇)。めづらしく 都にきさの 唐やまと すぎし野山は 幾千里なる(霊元法皇)。といった詩歌が残されています。また、当時の人々の象に対する関心は高く、象が江戸に到着する前から象に関する本が次々と出版されるなど、「象フィバー」が起きています。


 長崎を出発してから74日目の5月25日、江戸に到着。27日に吉宗と諸大名の上覧に供し、象は曲芸を演じ、愛嬌をふりまいて一同を驚かせたそうです。長崎から江戸までの354里(約1400Km)に渡る象のパレードでした。


 ところで海や川はどうやって渡ったのでしょうか?関門海峡もあれば、橋の架かっていない大きな川もあります。関門海峡は舟で渡ったそうですが、あの海峡を渡りきった当時の船舶技術って凄いですね。
一方、川ですが、当時軍事上の理由などから要衝の川では橋が架けられなかったので、深さのある川を渡るには舟橋やイカダをつくる必要があり、藩としては大変な出費が課されたようです。
 ちなみに舟橋とは、舟を繋ぎいてその上に板を敷き、要所々に杭を打って固定させる仮設の橋で、参勤交代の行列が渡る際にも作られていました。この象のパレードで、多摩川を渡る「六郷の渡し」に、延べ805人を動員して30隻の舟をつないだ記録が残されています。それから、舟を使った揖斐川では渡りきる寸前に深みにはまってしまい象が水面から消えたという話や、長良川では、集まったたくさんの見物人の歓声に驚いた象が、見物人に向かって暴走した話など、象の川渡りって結構大変だったようです。


通った街道は長崎街道、山陽道(西国街道)、京街道、中山道、美濃路、東海道、姫街道、東海道で、各地に享保の象の記録が残っているようです。象の画像については、「長崎から江戸まで歩き、六郷の船橋を渡った象の物語」をご覧ください。

【参考資料】
●『長崎から江戸へ 象の旅』 石坂昌三/新潮社 1992
●『徳川吉宗』 百瀬明治 /角川選書 1995
●『江戸時代の日中秘話』 大庭脩 / 東方書店 1990
●『長崎ものしり手帳』永島正一/葦書房 
●『江戸ものしりなんでも百科』別冊歴史読本特別増刊1992年第17巻23号/新人物往来社

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